言語化をすると壊れる伝えたい言葉の意味をどう伝えるか
目次
はじめに言があった、、なぜ「言葉」ではないのか。
色々な講演会に行くと『聖書にも「はじめにコトバがあった」と書かれていて言葉、言霊が大事です。』という話を聞くことがあります。
これがものすごく違和感があるので理由を確認してみました。
まず気になったのは「言葉」ではなく「言」一文字になっているところです。、
「言」は誓約を入れる容れ物に約束を守らなかった時に罰を受けるための刺青を入れる針から来ています。
口→神託を書き留めたものを入れる容れ物
辛→刺青を入れる針
もとはどんな語感だったのか想像してみる
口→神託を書き留めたものを入れる容れ物
辛→刺青を入れる針
辛+口=言
New Testament=新約聖書
Testament=遺言
違う言語を比較してみる
日本語だけでは語感がつかめないので英語、ギリシャ語、ヘブライ語の文章を比較してみる。
日本語
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。ヨハネによる福音書 1:1 新共同訳
英語
「In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God.」
John 1:1
ギリシャ語
「Ἐν ἀρχῇ ἦν ὁ Λόγος, καὶ ὁ Λόγος ἦν πρὸς τὸν Θεόν, καὶ Θεὸς ἦν ὁ Λόγος.」
ΚΑΤΑ ΙΩΑΝΝΗΝ 1:1 BYZ04
翻訳するとこんな意味
「みことばは初めにあり、みことばは神の目の前にあり、神はみことばの中にある」
By JOHN 1:1 BYZ04
ヘブライ語
「בְּרֵאשִׁית הָיָה הַדָּבָר, וְהַדָּבָר הָיָה עִם הָאֱלֹהִים, וֵאלֹהִים הָיָה הַדָּבָר.」
יוחנן א:1 HRNT
翻訳するとこんな意味
「初めは言葉であり、言葉は神と共にあり、神は言葉でした。
ジョン1:1 HRNT
ロゴスとミュトス
New Testament=新約聖書
Testament=遺言
Λόγος,ロゴス→理由
ギリシャではロゴスに対して
ミュトス、人の作った言葉があります。
ロゴスは論理とか言語化されていなくても人智を超えた法則のようなもの、理由、目的など多くの意味を含んでいます。
このニュアンスは「言葉」ではなく「言」と訳されているように感じました。
「言」→ロゴス
「言葉」→ミュトス
植物で例えると「根」と「葉」の違いですね。
「根も葉もない」というのも
「理由も行為もない」という意味です。
多くの講演会で話される聖書の引用は人の作った言葉ミュトスの事をさしている場合が多いように感じるのが違和感の元だったようです。
有言実行のための言葉の大切さという事を伝えたいとしたら聖書の意味とは逆です。
「はじめに言があった」というのは
「はじめに神が人に対する契約を持っていた」という意味合いが強く感じられるようになりました。
そうすると言というのは神と契約するために使うもので、目の前の人は第三者です。
本当に伝えたいことは例え話や比喩で伝えるのは直接伝えてしまうとミュトスになってしまうからです。
能楽とはどんな関係があるのか
能楽のブログになんで聖書の話かといえば、日本の古典「源氏物語」や「伊勢物語」など能の題材になっているものはミュトスの世界です。人が人のためにつくった著作でありながら1000年以上残っているところには時代を超えて生命力を強くする力があります。逆説的な表現や比喩、全く関係ない話を持ち出して「とってほしい行動を促す」など目的に対する表現方法は様々です。
そう思うと人の著作には、本当に言いたいことが言語化されていない、その言語化できない部分を音楽や舞で表現されたのが能楽というのは言い過ぎではないでしょう。原作ができてから300年ほどたってその解釈が語られる。そんな文化のリレーが伝承のされ方のひとつです。
「古事記」も口述筆記だったと伝えられるのは人の推敲を重ねた著作であるよりも天から降りてきた言葉を書き留めたという感覚が強くあるのではないかと思います。それに対して日本書紀は資料の集大成という感じがしますから検証を重ねて作られたような気がしています。これは史実というよりも実際に読んだ印象での話です。
そして「言」とは何か
はじめに言があった。というこの「言」という単語は自分の感覚としては契約のためのイメージ、誰がどう伝えるのかという、脚本のようなものと感じました。神の側からの契約内容という言い方もできるかもしれません。Scriptがはじめにあり、そのScriptは神とともにあり、そのScriptが神であったという、人知の及ばないところで現世での演劇のようです。
配役が決まっていて脚本も監督や脚本家の頭だけにある段階と似ています。台本になり配役された役者が目的を遂行するために活動する。
この「言」は実際はなにか、読み進めていくうちに明らかになります。
もうこれ以上は、それぞれの方の感覚で感じ取っていただく感得する世界ではないかと思います。
感得する世界
実際に「ヨハネの福音書」を読み進めてみると英語ではWordをHeと言い換えられるのですが、日本語では「言」のまま文章が続いています。つまりはこの言は肉体を持って目の前に現れる。つまりはイエス・キリストそのものです。そう呼ばれていないうちは「言」なのです。日本語に翻訳した方は「言」の語源、信託の書いた紙を入れる器「口」と刑罰の針「辛」が合わさった「言」のいう漢字を使用することにより現れた救世主のことを指し示す世界観を日本語にしたのだと感じました。「言」というものは重要な意味のある一文字です。
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