末世、末法、世紀末
朝活の『源氏物語』2周目は「常夏」
『日本書紀』8周目は「崇神天皇紀」
『聖書』は「申命記」に入りました。
毎日、短い時間ですが面白い発見が無限に広がります。
昨日から末法思想のことが頭に消しても消しても浮かんでくるので今日のテーマは「末法思想」です。
制限時間内でまとまらないと思うのでメモ的に残しておきます。
『聖書』は要所要所で原語と英語の表記を比べています。
「申命記」は誤訳から名前がついている!なんと!!
「原本から律法の写しを作り」を「第二の律法」と誤訳されたのがそのままになりDeuteronomyになっている。dual、duetにも通じる言葉です。
誤訳なら直せばいいのにと思うところですが、それを無理無理にでも肯定的解釈をしていくと難解な伝統が形成されてきます。今日の「末法思想」に思いがけずつながる内容です。
日本語と英語ではどうなっているのか見てみるとコピーなんですね。
かつて貴重書類をコピーはダメ、書写しはOKと言われたことがあります。どちらにしても「写し」は「コピー」
屁理屈坊やには好きご馳走です。
問題の原文翻訳は下記のようになっていました。
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‘彼が王位についたならば、レビ人である祭司のもとにある原本からこの律法の写しを作り、 ‘申命記 17:18
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And when he sits on the throne of his kingdom, he shall write for himself in a book a copy of this law, approved by the Levitical priests.
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で日本の末法思想といえば2025年7月5日、その前は2012年12月21日、その前は1999年7の月、、、、
その前は、、、とさかのぼっていくと能「花筐(はながたみ)」にも末法思想が語られています。
「恐ろしや、恐ろしや、世は末世に及ぶといへど日月は地に落ちず、、、、、」能「花筐」
この世が終わる。諸説ありますが釈迦が亡くなったのちその教えが形骸化する時期を経由し、教えが通用しなくなる時代が来る。これが末法と言われ広まりました。末世という言葉にも変わっています。
その末法に切り替わるのが西暦1052年と言われていました。
昨今、Windows10のサポートが終わる広告が出ています。
釈迦の教えが500年有効で、その後の500年が形骸化した時代になり1000年たって効力がなくなるのが末法といわれました。それが西暦1052年です。
1000年前から何かしら世界の終わりを連想することで心配をし続けています。
この末法はどのくらい前から心配しているのか見てみると『続日本紀』淳仁天皇の御代 天平宝字4年(760)年に末法についての進言と勅が掲載されていました。
良弁、慈君、法進という三人のお坊さんが天皇に進言します。
修行をしている僧が善悪がわからなくなっている。僧に4つの階位を作って欲しい。
淳仁天皇は、階層は煩雑になるので作らない。それでも経が読めない戒を破るものはあらためさせる。
昨今のペーパー得度は当に末世、末法の象徴のようです。
1052年と信じられた末法は760年から心配されていました。調べればもっと前の記述もあるかもしれません。
仏の教えがなくなる→世界が終わる→末世
と変わって現代に至るまで1000年以上前から、定期的に世界の終わりが語られています。
こうして心配してくれた先人がいるから平和だったとも言えますし、心配してもしなくても太陽も月も落ちてこないという能「花筐」のような発想もあります。
心配を煽る霊感商法や宗教勧誘、関係ないとバッサリ切り捨てることもないですが煽られ過ぎも健全ではありません。
ノアの方舟のように信じたものだけが救われるのを知ってしまうと信じないのが罪悪とも思えてきます。
また地震や天災の被害は末世末法とは関係なく部分的に起こります。
『源氏物語』「蛍」に光君が物語について語る場面があります。
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仏のいとうるはしき心にて説きおき給へる御法も方便といふ事ありて悟りなき者はこゝかしこ、たがふ、疑ひをおきつべくなん。
方等、経の中に多かれど言ひもてゆけば、一つ旨にありて菩提と煩悩との隔たりなむ、この人の、よき、あしき、ばかりの事は変はりける。よく言へば、すべて何事もむなしからずなりぬや。
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「悟りのないものはそこかしこに矛盾点を見つけて批判ばかりをする。経典などにも方便や作り話はある。目的は一つで「菩提(悟り)」と「煩悩(迷い)」や善悪の判断基準を知るためにある。すべて無駄なことはないのです。」
ここだけだといい話ですが、その前に物語なんて、、とちょっと論破気味の発言のあとのフォローのセリフです。
末法のようで末法ではなく、末世のようで末世ではなく、世紀末を心配していても通り過ぎてしまう。
タイムマシンがあったら「心配しないで今することに取り組んでください」と教えてあげたいですね。
始めの「申命記」ではモーセは人生の終わりを感じて語ったことが記載されています。現実的に世界が終わるったり今日、明日にどうするか考えても大したことはできません。そろそろ終わりの準備をするくらいの終活的発想で物事に取り組んだほうがまとまったことができるように思いました。
※画像はAIで生成しました。
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