世阿弥作「砧」の蘇武の伝説もその人生にイエスといった
目次
人生に意味はあるのか?
『夜と霧』の著者として、また実存分析を創始した精神医学者として知られるヴィクトール・フランクルさんの公演を記した一冊です。『夜と霧』はあまりにも有名な一冊です。この「それでも人生にイエスと言う」は体験的な部分よりも思想的な部分が多く語られている一冊です。
人生に意味や目的を求める人は多いと思います。かくいう私も、生まれた意味は何だろうと考えたことは多かったです。辛いとき、苦しいとき、悩み、不満の多いときには、特に人生に意味を求めたものです。
人間は「幸せ」になるために生まれてきた。というのもそこそこ普通にしていられるときはいいですが、不幸を目にするときには今ひとつ納得感の行かないものがありました。
この本との出逢い
「夜と霧」の著者がどんな本を書いているのか興味があり検索してこの本と出会いました。そのときに在庫が無かったので電子書籍で読むことにしました。
また世阿弥作「砧」の中に語られる蘇武の伝説と著者の人生に共通するものがあり強い興味を持っていました。蘇武は19年間幽閉されていました。誰もが死んだと思っていたが雪をかじり、飾り物の毛をたべて生きていたという伝説です。
人生からの問いだった
幸せは目標では無く結果に過ぎない。幸せというものを目指して活動している人は多いように思います。実際、意図して不幸を目指す人はいないでしょう。ところが何か勘違いをして不幸に向かって進んでしまうようなときもあるわけです。
こうした矛盾は哲学的なようですが、個人的にも答えの出にくい質問は「問い」が悪いと思っています。神や仏という存在を感じる事があっても、人生という存在を感じたことはありませんでした。その点、著者の語る「生きる意味があるか、と問うのははじめから謝っているのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。」という考え方は非常に納得感のあるものでした。
そして、大国主命が国作りの際、自らの、奇魂、幸魂を三諸山に祀るのもこの人生というもののひとつの表現では無いかと思いました。自分と同時に存在するものであり常に自分にたいして問いを出す人生こそが神という存在なのかもしれません。
毎回、答えを出せるようになった
個人的にかなり前から、人生脚本の自己相似について考えることがありました。その人の持っている公式のようなものに気づくまで問題が大きくなっていくことをよく目にしていました。また相談されることもありました。
その小さいパターンが、大きくなっても同じ構図で大きくなっていく。
例えば9時待ち合わせと決めていたのに9時10分に到着する。
このことじたいは本人が気にしてなければ大きな問題は無いかもしれません。それが大きくなってきて大事な約束に1時間遅れる。わざとではなくても、事故やトラブルで遅くなる。本人はこれでも不可抗力と思っているかもしれません。
それに気がつくまで問題が大きくなる。こんな人生のテンプレートのような現象も、人生からの問いと思えば、その問いに答えるまで同じ問いが出続ける。そんなことも納得できます。
この自分に問いを出す「人生」という存在を知ってから魂というよりは納得感を持って自分への問いを受け取れるようになりました。そしてその答えを出すことにも取り組むことに積極的になりました。
少々、抽象的な内容ですが、人生からの問いという一言を知るだけでも価値のある一冊です。
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