神に守られる人、縁をたつ人【龍田】
『日本書紀』を読んでいると天武天皇の御代から龍田の神を祭る記述が多くなります。ここは以前からの疑問です。大切にされていたこと。風の神として祀られているのは記述から知ることができます。
そんなこともあってか奈良の龍田明神は能「龍田」としても現代に伝わっています。どの曲もそうですが能は同じパターンのように見えて前提が全く違うことがよくあります。この能「龍田」にもそうした特殊なパターンを感じます。
まず最初に出てくるのがお坊さん。お坊さんの登場する曲は多いのですがその後に登場するのが龍田の神。お坊さんの登場する曲の多くは幽霊が登場するお約束です。
神職、天皇の勅使→神の出現
お坊さん→幽霊
例外もありますがこのパターンは王道です。幽霊は神職の前には登場しないのです。成仏というのは仏教にしかありませんから仏教にしかありません。このあたりは能のわかりやすい部分です。
能「龍田」はお坊さんが仏教を解くわけではありません。逆に諭される立場です。龍田神社に参拝に向かうお坊さんは竜田川を渡ろうとします。
そこに登場する謎の女性。このまま渡ったら神との縁がキレるからダメととめられます。竜田川には薄く氷が張っていて、その下には紅葉が錦のように折り重なっている。
そしてその女性は迂回路を通り龍田神社に案内してくれます。そしてこの女性は御祭神の龍田姫だという物語です。
季節は秋〜冬紅葉が美しい自然の風景を作り出しています。
龍田明神は紅葉が御神体、女性は龍田姫。
御神体(この場合紅葉)を踏んでしまったらいけないよ的なこと。
お坊さんは意図して環境破壊をするつもりではなく真摯に龍田に参拝をしようとしている。そういう人ですら御神体の紅葉が創り出した自然界の美を破壊することに心が向かないのです。
自分の利益に向かってしまうことに人は気づきません。とくに多くの人に喜んでもらったり地元の経済効果を考えた開発が環境破壊になってしまうこともあります。
「さればこそ神に参り給ふも。神慮に合はん為ならずや。心もなくて渡り給はば。神と人との中や絶えなん。よくよく案じて渡り給へ」
個人的にはここ好きな言葉です。
神に逢おうとして神社に向かっているのに御神体を踏んで行こうとする。そして昨今では神社にご利益を求める人も多くなりました。神社でもご利益を宣伝にしている社もあります。この能「龍田」の言葉によればはじめから神には守られているのです。傷つけるようなことをすれば縁が切れる。プラスアルファのよいことを求めなくても生かされていることが自然界の神秘です。
こうみると全国行脚しているお坊さんは龍田だけでなく仏縁と結ばれたり神縁が切れたりいろいろあってそれでも気づかない人類代表のようにも思えてきます。
一見効率よくしようと思う所からさらに遠ざかる、このお坊さんに、紅葉を踏まないように案内したのが実は龍田明神だった、自分が拝みたい人が最初に出会った人だった。
『青い鳥』『ガルシアへの手紙』などスタート地点にゴールがあったお話は時空を超えて存在ましす。だから何もしなくてもよいののではなく探し求める道のりに意味があります。そして原点に探しているものがあるのも宇宙の真理なのかもしれないですね。
※画像は著者所有の龍田川紅葉蒔絵の小鼓胴
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