優柔不断は地獄に堕ちる【求塚(もとめづか)】
今日は朝活で『源氏物語』が「浮舟」、『古事記』の序文を読みました。そこでで話題の共通点が「決められない」でした。能のなかでも男子二人に求婚され、答えを出さなかった人の末路を描いた作品があります。
能は現代の心理学のようなところが多々あります。この『求塚』も現代の心理学に通じると思った作品の一つです。
生きているうちに悩んだり迷ったりしている人はおおよそ死後の世界で地獄におちる事になります。仏教色が強いと救済されても良さそうですがそうなりません。目に見える現世での出来事は、そのまま見えない世界の出来事になります。
ここで便宜上、死後の世界とか、見えない世界とか行っていますが並行しているパラレルワールドと捉えてもよいかと思います。なぜならば現世には肉体や時間がありますが、見えない世界、常世、時空を超えたイメージの世界だからです。
今、苦しんでいれば、感情や心で象徴される見えない部分は、当然、苦しいものになります。この肉体のある世界、感情や心で象徴される見えない世界を、前半、後半に分けてつくられた作品ともみることができます。
少し頭が混乱する話ですが死後の世界は時間的にあとに来るものではなく、見えない世界のテンプレートを表現する役割の人がなぞっているということです。時間が逆になっているようですが見えない世界に時間はないのですから、物語の時系列にそった捉え方も、両方が同時にあると思っても、死後の世界が先にあると思ってもそれはそれぞれの人の感じ方です。私自身は同時に存在していると思っています。
能の台本では前半にこのような語りがあります。少々古いですが「冬のソナタ」を見た時にまさに三角関係が「求塚」のようだと思いました。ひとりの女性に二人の男が、同じ日、同じ時間に思いを届ける。昨今シンクロや引き寄せが喜ばれますが何事も陰陽二つの側面があります。
「昔、この所に。菟名日少女と申す女のありしに。また其の頃、小竹田男子。血沼の丈夫と申しし者。かの菟名日少女に心をかけ。同じ日の同じ時。わりなき思ひの玉章を通はす。
そしてこの女性、片方から恨まれたくないので明確な答えを出しません。『易経』においても「迷い」の極みは「迷えなくなります」。迷いの究極の姿は選択肢がなくなることです。そしてこの男二人はさまざまな争いをします。そして、なかよしの代名詞のような鴛鴦を弓で命中させることもその争いのひとつでした。
かの女おもふやう。彼方へ靡かば此方の恨みなるべしと。左右なう靡く事なかりしに。さまざまの争いありし後。あの生田川の鴛鴦を射る。二人の矢先諸共に。一つの翼に当たりけり。
鴛鴦にしてみれば突然パートナーを奪われる。これも目の前に見えている事象を壊してしまう象徴になっています。パートナーを求めているのに目の前のつがいのパートナーの命を奪う。
その時わらは思ふやう。無慚やなさしも契りは深みどりの。水鳥までも我故に。さこそ命も鴛鴦の。つがい去りぬる哀れさよ。」
そしてこの女性は見えない世界でどうなっているかといえば
この殺された鴛鴦は鉄の鳥になり、女の頭にとまって脳髄を喰われています。決められない脳は不要という表現のようにも見えます。これも見えない世界で脳を喰われているから現世で決めることができないのか。現世で決めなかったから死後の世界で脳を喰われるのか。どちらにしても脳は生きているうちに使うものです。
「また恐ろしや飛魄(ひはく)飛び去り目の前に。来たるを見れば鴛鴦の。鐵鳥(てっちょう)となって鐵(くろがね)の。嘴、足、剱の如くなるが。わらはが髪に乗り憑り。頭をつつき髄を食ふ。こはそも、わらはがなせる科かや。
物語は事実が元にあったとしても創作の部分があります。人はどんな時代でも肉体の筋肉運動と心や感情という見える部分と見えない部分があります。
現在、自分が現実として体験している世界、感情や心という見えない世界。見えない世界を最適化するのはまさに今この時の状態です。
どうなりたいのか。理想の状態に沿った今を過ごしていきましょう。
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