仏法は善か悪か
仏法は善か悪か
サントリー美術館の酒呑童子ビギンズの広告がなん度も表示される。
ということで、本日は酒呑童子から思いつく善悪をテーマにしてみようと思います。
幼少の時「レインボーマン」とううヒーローものがありました。
「インドの山奥で修行して〜」という主題歌の替え歌が流行ってました。
フィクションだとはわかっていても本当に現代に通じる秘術があるのかともチラチラ頭に浮かぶものでした。
その主人公がレインボーマンに変身するときの呪文が
「アノクタラサンミャクサンボダイ」
当時は「魔法使いサリー」「ひみつのアッコちゃん」など、呪文を唱えるアニメも結構あったのでそんなものの一つだと思っていました。
時は流れ、酒呑童子の登場する「大江山」の稽古を受けていると台本の中にこの言葉が出てきました。
「阿耨多羅三藐三菩提の仏たち」
本当にあるんだ〜。
感動の体験です。今なら「般若心経」や「観音経」に入っているとも分かりますが、当時は経文を読んだこともないし興味もないのですからこの言葉に再会したのも奇跡です。
この「大江山」は伝説と現実が交錯しています。
鬼退治の主要メンバーのひとり坂田金時の幼少期は日本人ならほとんどの人が知っている「金太郎」です。
さらに国立博物館に行ってみるとこの酒呑童子を切ったと伝えられる「童子切安綱」が国宝として展示されていました。
鬼を切った痕跡を科学的に調べたことはないでしょうが、刀剣の由緒として公式に記載され国宝にもなっているわけです。
伝説と現実が交錯し国宝を生み出し能にもなっています。
この酒呑童子も漂流した外国人説や未確認生物としての鬼、宇宙人説などなどさまざまな妄想を掻き立てられる説があります。
事実検証のない虚構がなぜここまで大切にされるのか??
少々疑問が湧いてきます。
能「大江山」は何を伝えたいのか。酒呑童子の正体はなんなのか深掘りしてみたくなってきます。
大江山の鬼退治のため、源頼光は50名ほどを山伏に変装させ大江山に向かいます。
酒呑童子の屋敷に着くと一晩泊めてくれるように頼みます。酒呑童子は修行者に危害は加えないと決めていることを語り屋敷の中に一行を招き入れます。
山伏に変装した鬼退治の一行は、道に迷ったところを助けてもらって有難いと礼を言います。そしてなぜ酒呑童子と呼ばれているのか質問します。
「我が名を酒呑童子と云う事は。明暮、酒を好きたるにより。眷属どもに酒呑童子と呼ばれ候」
酒呑童子は自分の名前の由来を語ります。
「されば、これをみ、かれを聞くにつけても酒ほど面白きものはなく候。客僧たちも聞こしめされ候」と酒をすすめるのでした。
そして酒を酌み交わすと酒呑童子は身の上話を始めます。
「我、比叡のお山を重代の住家とし年月をおくりしに。大師坊(最澄)というえせ人。峰には根本中堂を建て。麓に七社の霊神を斎ひし無念さに。一夜に三十余丈(約100m)の楠となって奇瑞を見せし所に。」
比叡山建設の際に代々住んでいた場所を追い出され悔しくて100mの楠になり奇跡を見せた。
そうしたところ「阿耨多羅三藐三菩提の仏たち我が立つ杣(そま)に冥加あらせて」という最澄の歌に仏たちも賛同し住んでいた比叡山を去ることになった。
酒を飲み意気投合したように見せかける鬼退治一行に気分をよくして酒呑童子は寝てしまいます。
鬼退治一行は夜が更けてから通力を失った酒呑童子の首を切り退治してします。
近年でも空港建設の反対デモのような大希望な反対運動もありました。街でも高層マンション建設反対運動をしばしば目にします。
当然ですが、比叡山のような大規模な宗教施設建設には地元の人からの大きな反対があったことはそれほど不思議なことではありません。
『日本書紀』などにも共通しますが日本では大きな勢力に反対するもの、いわゆる「まつろわぬモノ」は怪物にしてしまう傾向があります。
この酒呑童子も比叡山開山に反対していた地元の人たちかもしれません。ヒーローもの、戦隊モノは「勝てば官軍負ければ賊軍」的な価値観が気がつかないうちに身についてしまいます。
人に対しての善悪をジャッジしないと納得できない。道徳的に善悪の判断がつくのは大切です。人や物事に善悪を決めるようになると争いに向かいます。
『聖書』の言葉が頭に浮かんできました。
ーーーーーーー
主なる神は人に命じて言われた。 「園のすべての木から取って食べなさい。 ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」創世記
ーーーーーー
この能「大江山」と通じているものを感じます。神の領域である善悪の判断を人がするようになると争いが起こり「必ず死んでしまう」というのもおかしくありません。
能「大江山」は怪物退治の能です。その奥には住んでいるとこがなくなってしまった人々の悲しみ。また友好的な好条件に納得したら裏切られるような退治される経緯など、意外に現代に通じる問題定義があるようにも思えます。
誰にとっての「阿耨多羅三藐三菩提」なのか酒呑童子という存在を通して伝えているのかもしれません。
世阿弥は善悪はものに備わっているモノではないと語っています。
人の決める「善」「悪」は個人の都合によるものですね。
酒呑童子から連想したことを綴ってみました。
ーーーーーーーーー
139よい・悪いが決まる要因
本質的にある「よい」「悪い」とはどんな基準で決まるのだろうか。
「善悪不二」「邪正一如」という言葉がある。タイミングによって用事が足りるものを「善」と言い、用事の足りないものを「悪」とする。受け取り手が何かを欲しがる状況はさまざまだ。そして、欲するものが手に入ったもののそれに満足してしまえば、また他のものが欲しくなる。これは人々の中に咲く花である。何をもって真の花と言えるのかといえば、タイミングよく欲しいと思う、そのときこそが花なのだ。『風姿花伝』
最新記事 by 森澤勇司 (全て見る)
- 「目的」と「手段」の矛盾 - 2025年6月1日
- 仏法は善か悪か - 2025年5月31日
- 「怒り」と「正義」 - 2025年5月30日
- 「相槌」を打つ - 2025年5月29日