「気」は誰にでも見えるもの
「気」は誰にでもわかるもの
先月末から体調不良までいかないのですが、絶好調な感じもない感じがしてます。元気な時が100だったら70くらいの感じ。
そういうときは、どうしてもやっておきたい事に集中してエネルギーを使うようになります。
今日は色々な「主人」と「召使い」の関係を語っているものがババッと繋がったのでシェアすることにしました。
ーーーーーーー
『兵法家伝書』柳生宗矩 著
「思ひつめたる心」を「志」といふ也。内に「志」ありて外に発するを「気」と云ふ也。「志」は主人なり。「気」はめしつかふ者なり。」
ーーーーーーーー
「気」というのは見える人だけ見えるように思われていますが、周りの人が誰でもわかるのが「気」です。
ーーーーーーー
『兵法家伝書』柳生宗矩 著
「機」とは、即ち「気」なり
ーーーーーーー
説明のプロセスを省けば「好気」は「適切な筋肉運動」のことだという内容です。
ーーーーー
『花鏡』世阿弥 著
棚の上の作り物のあやつり(人形)、色々に身ゆれども、まことは動くものにあらず。あやつりたる糸のわざ也。この糸、切れん時は落ち崩れなんとの心なり。申楽も色々の物まねは作り物なり。これを持つ物は「心」なり。この「心」をば、人に見ゆべからず。もしもし見えば、あやつりの糸の見えんがごとし。返す返す、心を糸にして人に知らせずして万能をつなぐべし。かくの如くならば能の命あるべし。
ーーーーーー
肉体を操り人形に例えています。「心」という糸で「適切な筋肉運動」ができると語られています。
ーーーーー
『地上最強の商人』オグ・マンディーノ 著
かくして、すべてに優先して、私の守るべき最初の方は、次のようになる。
「私は良い習慣をつくり、自ら、その奴隷となる」と・・・。
ーーーーーー
「志」「心」「良い習慣」と表現は違いますが「内にある思い→願望」これは直接目で見ることはできません。
それだけでは瞑想しているのと同じです。
それを外にだす、体を使って何かするのを柳生宗矩は「気」、世阿弥は「あやつり(人形)」、オグ・マンディーノは「(良い習慣の)奴隷」と語っています。
「気」とは見える人だけに見えるようなものと思われがちですが、誰にでもわかるものです。
私もこれからの人生、本を書きたいと思っているので毎日ブログを書くことにしてみました。
そう思ってはいても、筋肉を動かさなければ投稿もできません。「ブログを更新しているだな」くらいの「気」は発しているのではないかと思います。
以前、ドイツの哲学の先生が小鼓のワークショップにいらしたことがありました。
「人の思考と行動はなぜ一致しないのか?」と二日間、学会で議論したが結論は出なかったと話されていました。
「日本的な考えってどうなんですか?」と聞かれました。
能の表現は「体の向き」が「心の向き」です。
右をみたら「右を見たかった」
手を上に上げたら「手を上げたかった」
単純に行為が心の鏡なのでズレる葛藤は少なめです。
ケーキは食べたくないのに勝手に腕がケーキを口に持ってくるんです〜
のような葛藤はなく
ケーキを食べている自分はケーキが食べたかったんだなと思うだけ。
起きたいのに起きられないもなく、今は寝たいんだなと思うだけという単純な受け取り方です。
健康なのに「起きたい」のに「起きられない」となると怪奇現象です。「今は寝たい」だけ
とはいえ、そうかんたんに認めたくない時もあります。
「今していること」が「やりたいこと」というシンプルな受け取り方は余計な葛藤やストレスを生みません。
心と体は繋がっている。西洋東洋の区別なくそう考える方々の共通点が頭に浮かんだ朝です。
※画像はAIで生成しました。
最新記事 by 森澤勇司 (全て見る)
- 「気」は誰にでも見えるもの - 2025年6月19日
- 三十三天と悠久の時間 - 2025年6月18日
- 「できる」と「わかる」 - 2025年6月17日
- 人生の楽しみと夢からのメッセージ【邯鄲】 - 2025年6月16日
コメントを投稿するにはログインしてください。