キリギリスと天壌無窮の神勅
毎週、日曜日7:00から『日本書紀』の完読会をclubhouseで開催していただいてます。
日本の正史とはいいながら『古事記』にくらべ少々マイナーな『日本書紀』日本人で通読にチャレンジしようという方々が集まる貴重な時間です。
本日のテーマは天孫降臨でした。
この中で登場するのが日本の最重要神勅と言われる「天壌無窮の神勅」です。
今日はこの中の「宜しく」という読み下しを深掘りしました。
戦前の教科書や神社本庁では下記の読み下しが採用されています。
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「豊葦原(とよあしはら)の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みづほ)の國(くに)は、是(これ)、吾(あ)が子孫(うみのこ)の王(きみ)たる可(べ)き地(くに)なり。宜しく爾皇孫(いましすめみま)、就(ゆ)きて治(しら)せ。行矣(さきくませ)、宝祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、当(まさ)に天壌(あめつち)と窮(きはま)り無(な)かるべし」
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権威のあるところで出しているものなのでなんの疑問も持たないようにしていたのですが、、
改めて原文を見てみると少々、疑問が湧いてきました。
「宜しく爾皇孫」この一文
「宜しく」??
この読み下しでよいのか??
原文を確認すると下記のようになっています。
「葦原千五百秋之瑞穗國、是吾子孫可王之地也。⭕️宜爾皇孫、就而治焉。行矣。寶祚之隆、當與天壤無窮者矣」
『日本書紀』原文は「葦原」で「豊葦原」になってません。
これは少し深掘りしていこうとこの時にSwitch ON😃
『古事記』を見てみると
「此の豊葦原の水穂国は、汝知らさむ国ぞと言依さし賜ふ」
「此豊葦原水穗國者汝将知國言依賜」
そもそも文章自体が全然違います。とはいえここから「豊葦原」にしたのだろうと推測できます。
『古事記』は崇め奉っている方も多いですが、古典の文献として読めば冒頭の出だしは孫悟空が活躍する『西遊記』と酷似しています。
さてそれでは謎の「宜しく」
神社関係の方や一部の明治、戦前ノスタルジアを持つ人は暗唱している人もいるようですが、、この日本語に誰も違和感ないのでしょうか。
そこに疑問を感じつつも四書五経を調べてみると、、
おー!!見つけました。
『詩経』キリギリスの詩
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螽斯羽 詵詵兮
宜爾子孫 振振兮
螽斯羽薨薨兮
宜爾子孫 縄縄兮
螽斯 羽 揖揖兮
宜爾子孫 蟄蟄兮
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「螽斯」はキリギリスともイナゴとも言われます。またこのキリギリスはコウロギ、バッタと古語の区別は複雑なのでここでは深掘りせず、一旦キリギリスとしておきます。
こうしてみると天壌無窮の神勅は四書五経からの影響も大きいことが感じられます。
でこの「宜爾」は一つの言葉として「あなた」のような二人称で読み下しているものも多々あります。
天壌無窮の神勅だけ「宜しく」?
とはいえ大日本帝国の時代だったらこんな疑問を持つことすら許されないことですね。
これは読み下しの問題なので疑問のある方は原文と合わせて自分の意見を持つのがよいとおもいます。
私個人の意見としては「原文」をどう捉えるかを尊重し「読み下し」を一字一句固定化することには違和感があります。
詩経の「宜爾子孫」から「宜爾皇孫」のヒントになった「そのように感じる」という頭に浮かんできたことを綴ってみました。
子孫繁栄について『聖書』でも語られています。神がアブラハムに子孫の繁栄を約束する場面です。
「わたしはあなたの子孫を天の星のように増やし、これらの土地をすべてあなたの子孫に与える。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。」
創世記 26:4
思想というのは仏教や数々の自己啓発、心理学のように輸入されてくるものも多いです。
それでも子孫の繁栄や幸福を願うのは国が変わっても共通しているようですね。
※画像は森澤勇司所有の小鼓胴です。
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