現代と1500年前の日本
現代と1500年前の日本
大伴金村大連(おおとものかなむらのおおむらじ)
日本の歴史で一般的には有名ではないけれども重要な人物がいます。
そのひとりが大伴金村です。武烈天皇の時代に現れて欽明天皇の時代まで大連として君臨した人物です。
武烈天皇には皇后も皇子もありませんでした。
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『日本書紀』
小泊瀬(おはつせ)天皇(武烈天皇)崩りましぬ。もとより男(おとこみいこ)女(おんなみこ)なくして継嗣(みつぎ)絶ゆべし
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大伴金村大連のアイデアで5代もどった応神天皇の玄孫(孫の孫)を天皇に擁立します。そして継体天皇が武烈天皇で絶えた皇統を継ぐことになります。
ここまでのああなってこうなってはいったん置いておいて大伴金村はその後、大連として約70年5代の天皇に仕えます。
大伴金村が仕えた天皇と、そのおおよその年代は以下の通りです。
* 武烈天皇: 5世紀末から6世紀初頭(在位498年頃 – 507年頃)
* 継体天皇: 6世紀初頭から中頃(在位507年頃 – 531年頃)
* 安閑天皇: 6世紀中頃(在位531年頃 – 536年頃)
* 宣化天皇: 6世紀中頃(在位536年頃 – 539年頃)
* 欽明天皇: 6世紀中頃(在位539年頃 – 571年頃)
朝鮮半島の任那(みまな)はミマキイリビコイニエ天皇(崇神天皇)の名前から任那と名付けられた日本の統治下にある国でした。
継体天皇6年(512)
百済から任那の四県を百済の統治下に置くように使いがきます。
理由はともかく大伴金村はあっさりと百済に四県をあげてしまいます。上哆唎(おこしたり)・下哆唎(あるしたり)・娑陀(さだ)・牟婁(むろ)
ここで大伴金村は妻に意見されます。「応神天皇が胎内にいるときから神から授かった朝鮮半島を分割してあげてしまうとは、、あとあと民衆に非難されるでしょう。」
弱気になった大伴金村に妻はアドバイスします。
「仮病使いなさい!!」
そして代役をたてて表に出ないようにしていました。
世間では大伴金村と哆唎国守 穂積臣押山は百済から賄賂を受けているだろうと噂されました。
ときは立ち欽明天皇元年(539)
大伴金村が百済に四県をあげてしまった事件が再燃します。
この頃、百済とヤマトは同盟国。任那は日本府で治めていた土地でしたがこの日本府の役人の多くが新羅に買収されているというグチャグチャなことになっています。
大伴金村が任那に四県をわたしてしまったことで新羅は長年恨みを抱いています。
そして大伴金村は病気ということで朝廷には出仕せずに自宅にこもっています。
そして天皇は見舞いを遣わします。
大連はその使いに伝えます。
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「臣が疾む所は、余事に非ず。今、諸々の臣等、臣を任那を滅ぼせりともうす。故に恐怖(かしこま)りて朝へざらくのみ」
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まわりが任那を滅ぼしたのは私のせいだというので朝廷に行けないのです。
使いから報告を受けた天皇は追及することなく労います。
長年、忠誠を尽くしてくれたのだから気にしないように。
民衆としては賄賂をもっらって領地をあっさりと他国にあげてしまった上に仮病を使って表に出てこない。
その状況は許せない状況です。
欽明天皇の対応は
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ついに罪とせずして、優くめぐみたまふこと弥(いよいよ)深し。
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お咎めなしで厚く労った。
これが幕末の大老 井伊直弼 になると吉田松蔭のような人が実務者 間部詮勝(まなべあきかつ)を暗殺しようという激しい人も出てきます。
外国と戦争をしている時代は身内には意外におおらか。戦争がない時代には思想が激しくぶつかり合う。
なんとも現代と被るような逸話です。
歴史は繰り返すという言葉がありますが、繰り返すというより同じ立場になれば同じことをしてしまうのが人の性なのかもしれません。
※画像は『日本書紀』英語版の表紙です。
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