戦後80年勉強会

終戦80年勉強会
「終戦」の意味とその遺産
靖国神社の勉強会に参加
戦争のお話というと何かとGHQ云々という知ったか説が横行する。
今回の勉強会は外的な要因を一旦無くして内部でどんな事が起こっていたかという視点のお話でした。
靖国神社で公式にしている勉強会は、よくある戦争の語り部的発信者や講演会、特攻美談などの脚色されたエンタメではなく安心して参加できます。
シェアしたいことは多々ありますが印象に残ったのはここ
昭和天皇と陸軍と不和
陸軍からの不正確な情報と無責任な対応。
それを聞いてまず頭に浮かんだのは光仁天皇の時の征東使です。
蝦夷(関東以北の先住民?)を制圧するために送った軍隊はいつまでたっても成果を出さない。のらりくらりと言い訳を送ってくる。
それもこの時が始めではなく「天孫降臨」に際して葦原中国の先住民平定に送り込んだ使いも大己貴神(大国主神)に寝返って報告をしない。
神代から戦後まで同じ問題は何度も何度も繰り返される。
それからしたら新防衛大臣もかなりマシですね。少なくとも露骨な裏切りはしないでしょう。
終戦の遺産として日本人は独特な平和感を持つようになったと言われています。
戦争体験のないリアルな認識欠如
今回の勉強会ではこのように表現していました。
「国際的視野を欠いた独善的な空想的平和主義」
ほんとYouTubeや講演会など、どこから引っ張ってきたのかと思うような意味づけや脚色がされています。エンタメと歴史は区別しておきたいですね。
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昭和20年8月10日第1回御聖断
昭和天皇:「本土決戦本土決戦と云ふけれど、一番大事な九十九里浜の防備も出来て居らず、又決戦師団の武装すら不十分にて、・・・いつも計画と実行とは伴わない。
之でどうして戦争に勝つことが出来るのか。このような状態で本土決戦に突入したら、どうなるか。・・・日本民族はみんな死んでしまわなければならなくなるのではなかろうかと思う。
そうなったら、どうしてこの日本という国を子孫に伝えることができるのか」
→高島辰彦陸軍中将(第 12方面軍参謀長):「最大の欠陥」を指摘と恐懼、「本土決戦は、結局九十九里浜の陣地に象徴される“砂上の楼閣”であった」
* 原爆投下隠蔽(「新型爆弾」)と昭和天皇のお怒り→陸軍首脳部に大きな衝撃
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『続日本紀』
宝亀十一年(780)十月二十九日
天皇(光仁天皇)は征東使に次のように勅した。
朕は、今月二十二日の奏状をみて、征東使らが遅延し、すでに征東の時機を失っていることを知った。
将軍が出発してから久しく月日がたち、集まった歩兵・騎兵は数万余人にのぼっている。それだけではなく征東使は、賊の地に攻め入る期日を度々上奏してきていた。
本来なら、計略はすでに巡らされ、今は攻め入って狂暴な賊を平らげ滅ぼしているはずである。
それなのに今頃になって、「今年は征討できません」と上奏してきた。
夏には草が茂っていると称し、冬には被(防寒の上着)が足りないと言い、様々に巧みに言い逃れをして、ついに駐留したままである。武器を整え、兵糧を準備するのは将軍の本分である。
しかるに、兵を集める前に準備もしないで、逆に「まだ城中の食糧は蓄えられていません」と言ってくる。
しからば何月何日に、賊を課して伊治城を回復するというのか。まさに、今将軍は賊に欺かれたために緩慢となり、この返留を招いたのである。
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『日本書紀』神代
そこで高皇産霊尊は、その神々の言葉に従って天穂日命を中国平定のために派遣された。しかし、この神は、大己貴神におもねりこびて、三年たっても復命しなかった。
そこでその子の大背飯三熊之大人〔大人、これを于志という〕、別名武三熊之大人を派遣した。しかし、この神もまた父に従って、とうとう復命しなかった。
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