日本書紀完読に向け二週目は赤き黒き六合の常闇【日本書紀2】
02①−2 0113
052→057○○○
058→063○
064→069○○
070→075○○
076→081○○
082→087○○
今週は様々な違いが気になる週だった。
自分の考えと違うなと思っても自己矯正のみに徹した。
雷の種類が古事記と違う、
白山神社の菊理媛命が現れた白山神社に行こうと思った。
伊勢の内宮、外宮の神が現れる。伊勢でも月読宮は離れているので神話の世界と現代が結びついてくる。
神社に祀られている神々が次々と生まれる場面は日本書紀の中に描かれている伝説と現代が結びついているようで力が湧いてくる。
天岩屋の件、読んでみると暗い時には騒いで笑おうという感覚が大事ではないかと思えて来る。
うちなる神を出現させるには、準備、祭、笑い、が必要なこと。力強く生きていた先祖の思いが現実味のある情景とともに感じられる。そんなことを思っていたら枚岡神社の5000人で笑う注運縄掛神事の記事が届いた。
誓約の場面で
赤き(きよき)
黒き(きたなき)
こんな漢字が当てられているのが面白い。白は判定不能かジャッジしない感覚でしょうか。スタンダールの「赤と黒」にも通じる感じ。
全員直接会った上でグループのルールをつくったが、実際に引き継ぎがうまく機能しなかった。次回以降ルールが遂行されない場合は見直しも必要かと感じた。返事をくださいと何度も送らないと返事が来ないことに自己の生活を見直すよいきっかけになった。
次の週の引き継ぎがなされたか一抹の不安を持ったが、一般社会人の集まりなので確認しないことにした。
返事もするかしないか相手の自由意志と思えば、特にそれを気にするという選択は自分の人生に不必要と割り切った。
聖書の一節、
「人の道は自分の目には正しく見える、 しかし主は人の心をはかられる。」箴言 21:2
スサノウ尊の行為は非人道的とも思ったが人ではない神なので人でなしなんだなと理解した。
神道で神とは自分自身であると聞き、臨済宗のお寺でも仏とは自分自身であるという話を聞いた。
うちに秘められているものではなく、丸出しになっている。自分の生活自体が神であり仏であると言うところが命とLifeに通じている事を強く感じた。
能の囃子で「出端」または「出羽」とかく部分があります。日本書紀にある「端出之縄」の端出から導き出すと言う事に通じてるのかと連想される。
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