日本書紀 完読会 第4期 16週目 感想
268−303
今週は特に残せる物はほとんどないのだと感じる週だった。天皇であっても何十年の出来事が文庫本で数ページになってしまう。これだけの少ない情報で一生を評価されてします。周辺にいた人に至っては当然ながら全員の名前は出てこない。
米を作っている人もなければブランドもない。子孫を残した人が今の自分につながっている。
土地の名前も残っているところが多いが、統合などで変わってしまうところも増えている。
まだ土地の名前が残っているうち、戸籍制度で先祖がたどれるうちに読んでおかないと自然に風化する記録のように感じてきた。
また蝦夷に対してここ数ヶ月で印象が変わってきた。現在の自分達には大和民族よりも蝦夷の血を引く人の方が多いのではないだろうか。
人生の短いし記録に残しても『日本書紀』でさえ、読まれないくらい。自分のことが残るわけではない。本当に今何を感じて生きているうちに何をしたいのか。迷っている間に人生は終わってします。みたい景色、感じたいことに24時間を投入したいと心から思えるようになった。
陵地を決める場面もいままで記載がなかったのが不思議なくらい。戦前に埋葬地を決めておくのは不思議なことではない。
履中天皇、反正天皇は自分にとってはエピソードに馴染みがない。
親子や使いの不祥事は景行天皇の御代からたびたび記載されている。国の正史にゴシップ的なものが多いのもこの後の武烈天皇の系譜を断つための仕込みなのだろうか。
吾子籠が妹を献上するという表記は神代の天照大神とスサノウ神の誓に通じるところを感じる。
景行天皇の御代、イチフカヤと同じく刺領布のように目先の利益で動く人は処刑されてします。利用されて殺されるわけだが、自分の信念に従って生きる吉田松陰のような人が徳が高いというのだと強く感じる。
安曇連浜子の目の刺青はどんな形だったのか気になるところ。意外に罰ゲームの丸を描くようなものが原型を伝えて知るのかもしれない。
4年に諸国に書記官が置かれる。ここまでは口頭伝承な訳で記録し始めた時点で各地の伝承の齟齬があることは予想できる。それが集まって『日本書紀』ができていると思うと関わった人の多さと苦労に感謝の念が湧いてくる。
伊弉諾神が乗り移り入墨が廃止されることになった経緯が面白い。
神功皇后のあたりから神との対話が聖書のように罰を伴うものになってきている。
神の意向というものは素直に受け取るのが吉。
神を祀ることやさまざまな不祥事の記載のおおい履中天皇に対して反正天皇の記載は少ない。記載が少ないほど社会が安定し徳が高い表現ではないかと感じるようになった。
最新記事 by 森澤勇司 (全て見る)
- 日本の成り立ちアーカイブ - 2024年6月4日
- 日本書紀 完読会 38週 感想 - 2024年4月21日
- 20240414 日本書紀完読会37週目 - 2024年4月14日
- 日本書紀 完読会 35週目 - 2024年4月14日