観阿弥とキュープラ・ロス
観阿弥とキュープラ・ロス
心理学を学んでいるとき人が死を受け入れる5段階に触れることがありました。実際に自分でも人の死に立ち会ってますからピッタリ御段階にはならないだろうとはあ思ってます。
「卒都婆小町」という作品がこの五段階とつかがっている様に感じたお話です。世阿弥の父 観阿弥 作と伝承がある能です。
この卒都婆小町は老女物と呼ばれるおばあさんを主人公にした能の中でも音楽的な変化も多く劇的なつくりになっています。
ざっとしたあらすじはこの様な物語です。
はじめに高野山の偉いお坊さんたちが登場します。
そこに登場するお婆さん
お寺の廃材として置いてある卒塔婆に腰をかけて休みます。
それを見つけて咎めるお坊さん
卒都婆に座ってはいけません!!
このお婆さんは、これは木です。功徳はないでしょうと答えます。
そこで卒塔婆とは、、と語るお坊さんとの禅問答
ただ物ではないと悟ったお坊さんは頭を下げて言いがかりをつけたことを謝ります。
そうするとこのお婆さん、お坊さん難しことを言いますねとからかう様な和歌を読みます。
お坊さんが「貴方は誰なんですか?」と尋ねると小野小町だと名乗ります。
お坊さんが小町の美しい姿を語ると、小町は明日生きているかもわからないのに食べ物をあさる姿を嘆きます。そしてそのお坊さんに物乞いを始めます。
「えっ」と驚くお坊さんに「小町のところに行くんです」と言い出します。「貴方が小町じゃないですか」というと「いや小町はこんな姿じゃない、美しい女性なんです」とかたり100歳になった今、返事のない寂しさが襲ってきてしまうと交錯した世界に入っていきます。
興奮はピークになりフワッと抜けたような悟りの世界に入っていく。
キュープラ・ロスさんの『死の瞬間』を読んだ時660年ほど前に書かれた「卒都婆小町」の世界と重なる感覚がありました。
死の受容の五段階は下記のような語られています。
第一段階/否認と孤立
第二段階/怒り
第三段階/取り引き
第四段階/抑鬱
第五段階/受容
否認と孤立
→卒都婆に腰掛けていたことを咎められる場面
怒り
→お坊さんの咎めに対する反論
取り引き
→深草の少将の霊が取り憑いてしまう。小町のところに行くと言い出す。
抑鬱
→自分自身が深草の少将になり死を迎える描写をする
受容
→悟りの世界
朽ち果てた卒塔婆と老いた小町
人や物の価値はどこにあるのか。
「老い」と「死」がテーマのようでいて作品からのメッセージではなく人それぞれの見方ができるのが能のよいところです。
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