日本書紀完読に向けて12週八幡様が海で生まれる【日本書紀12】
20200323
124→129
130→135
136→141
142→147
148→153
154→159
正体不明の神の神託がある、聖書のサウル王と仲哀天皇は容姿や葬られた地名など似ているところが多い。神代の時代にことごとく名前がつけてその神性が見える化されてきた。ここに聖書のようになにか神がやってきて皇后のくちから神託が下される。これは現在でもよくあることだと思う。自分に対する苦言を神からのメッセージと捉えるか、相手の人間が勝手なことを行っていると捉えるかはだいぶ意味合いの変わるところだと思う。私は周りの人の言葉を神からのメッセージと捉えたい。
魚に酒を飲ませて漁をするのはおもしろ面白い。神を信用しきれず裁きを受けるのは疑いというものが身体に影響するのだろう。決めた事は決めた通りにやりたいものです。
後の応神天皇終戦の場面は感動的でした。海の上で生まれたからウミと名付けられるのもシンプルで潔いです。また神の名を訪ねて住吉明神が答える場面がある。この場面は注を読むといくつもの説が記載されています。
こうしてみると神というのは「人間以外のすべて」という定義が出来るのではないかと思う。もっと突っ込んで言えば私以外のすべてがかみという存在だといえる。
あるときは天照大神という存在にもなる。ここは海の上だったから住吉明神が現れる。これも神功皇后の脳内の話であり、そうだなと思えばその存在になる。これは現代でも同じ事が頻繁に起こっている。というよりそうした作用の中に自分がいると捉えた方がいいと思う。
国譲りの時に海に入っていった事代主命そして住吉明神も同じであり、作用に名前をつけた擬人化だと考えると全部に移管星があり納得できる。
群盲象をなでるということわざのように自分以外はすべて神。そしてその神とともに共存しているのが自分という存在だと思う。これはいままで読んできた中で最大の認識の変化があった。自分以外はすべて神という視座は日常も気持ちよく過ごせそうです。
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